山中城は戦国時代、小田原を本拠とする北条氏が西の守りとして永禄年間(1558~1570)に築城したといわれる山城です。
昭和9年(1934年)に国の史跡に指定されています。
天正18年(1590年)3月29日、天下統一を目指す豊臣秀吉の大軍によって半日で落城、その後廃城となったと伝えられています。
現在は、発掘調査・整備により北条流築城術を代表する畝堀、障子堀、角馬出、土塁等が見事に復元され、平成18年(2006年)日本百名城に選定されました。
山城である山中城
山中城は、山田川や来光川の源流に挟まれ、急峻な斜面に囲まれた自然の要害の地につくられた山城になります。
標高580メートル、城の範囲は東西500メートル、南北1,000メートルに及びます。
城からの展望はよく開け、西櫓からは御殿場・裾野方面が、岱崎出丸からは伊豆北部と駿東の大半を一望のもとに見渡すことができます。
山中城のある伊豆地方北部は、武田・今川領と国境を接しており、本城である小田原城にとって西方防御の要の地でした。
障子堀や畝堀
山中城は、北条氏の築城技術を駆使して造られた城で、戦国時代末期の山城の様子が大変よく分かるようになっています。
昭和9年(1934年)に国の指定史跡となり、三島市では、400年間埋もれていたこの山城の発掘調査を、昭和48年から開始しました。
発掘調査によって、曲輪の周囲に巡らされた堀や土塁などの防御施設、堀の上に架かっていた木橋の跡や門柱跡などが明らかになりました。
「障子堀」や「畝堀」は北条氏の城に特徴的な堀の形で、堀の中に土手状の畝を掘り残して区画し、上から見ると障子や田畑の畝のように見えることからそう呼ばれているそうです。
現在は、型くずれ防止のために芝生が張られていますが、本来はローム層(赤土)がそのまま露出し、滑りやすく、登り難い造りになっています。
出土品には、鉄砲玉・石つぶて・兜の前立などの武器・武具・陶磁器や古銭・キセルなどの日用品があります。
石を使わない土だけの山中城
400年前の遺構がそのまま復元されている石を使わない土だけの山城は全国的にも非常に珍しいものになっています。
昭和56年、三島市制40周年に合わせて史跡公園として一般開放し、以来多くの人に憩いの場となっています。
また、春から晩秋にかけていろいろな花木が咲き、天気が良い日には障子堀越しに富士山が見られます。
「障子堀」「畝堀」が特徴的な緑豊かな史跡公園は、歴史的な面、技術的な面で評価され、「日本百名城」にも選定されています。
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